おしゃべりサロン くらら舎


生きているということは学ぶこと
by kuraramichiko
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カテゴリ:子供の頃( 4 )

父の慟哭

 昭和22年1月11日 土曜日

その日は穏やかな日和の昼下がりでした。


肺結核で衰弱著しい兄が、

「外の景色を眺めたい」と 父にお願いしていました。

「よしよし」と 父は縁側のガラス戸や 納戸の障子も開け、

自ら起き上がることもできなくなった兄を抱えて起こし、

正座させました。


暫くして「ありがとうお父さん。閉めてください」

「よしよし 風邪をひいては いけんからのう」と、

父は急いで南北の戸障子を閉め始めました。


 みちこは 年中軒下に置いている一畳台に腰掛けて、

その様子を耳にし「兄は未だ元気だ」と 安堵していました。


突然


「みつてる―う―!」と父の異様な叫び声に

みちこはハッと驚く と同時に、兄の臨終を察知し

冬枯れの田んぼの中を一目散に走り、

近くに住む父の従兄弟の伝吉小父さんの家へ飛び込み、


「あーちゃんが死んだ」と 伝えました。


兄は 肺結核でした 享年22歳

当時は パスもマイシンも無い時代で、

多くの人が命を落としていました。



昭和45年4月21日 父は67歳で旅立ちました。

声あげて泣き叫ぶ父の声を聞いたのは、 

後にも先にも 兄の臨終のときだけでした。
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by kuraramichiko | 2014-01-10 19:14 | 子供の頃

タケちゃん

NHKのテレビ小説「おひさま」を視ています。

今日は、陽子先生の深い思いやりに涙してしまいました。

みちこさんの終戦は、国民学校4年生のときでした。

そして、突然、みちこさんは「タケちゃん」のことを思いだしました。

タケちゃんは、都会からの疎開児童でした。

タケちゃんは、墓地のなかのお地蔵様を祭っているお御堂に、

一家揃って住んでいました。

農家でありながらも、みちこさんは、お米は「兵隊さんのために」供出、

麦の中にお米が入っているようなお弁当、真中に梅干し、

他におかずは時々の野菜ばかり食べていました。それが普通の生活でした。

タケちゃんは、お昼は「家に帰って食べてくる」と言って、

お弁当を持ってきていませんでした。タケちゃんは、お勉強もよくでき、

頭の良い男の子でした。毎朝早起きして新聞配りもしていました。

終戦後暫くして、タケちゃんは都会へ帰って行かれました。

それから30数年振りに再会しました。

小学校の同窓会です。

集まったクラスメートが、どのように「生きてきたか」自己紹介を兼ねて、

それぞれ話すことになり、タケちゃんの番になりました。

彼は、立派な紳士になっていました。

が、小学校時代の想い出を語りかけた途端、絶句、大粒の涙を流しました。

タケちゃんの家には「食べるものが無かった」のです。

タケちゃんは、お水で空腹を凌ぎ、ひとり高梁川の堤に座りお昼を過ごしていたのです。

恩師の先生はじめ、集まったクラスメイトも全員涙しました。

当時、幼かったとはいえ、みちこさんは余りにも疎い子供でした。

小学校時代の厳しく辛い生活がバネとなって、タケちゃんは立派な大人になっていました。

集まった全員、涙が乾いたあとは、ワイワイガヤガヤ。

タケちゃん、ミツちゃん等々と小学生に戻り、それはそれは愉しい同窓会になりました。

NHKの「おひさま」は、みちこさんの生い立ちと重なります。
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by kuraramichiko | 2011-05-26 20:06 | 子供の頃

「福は内、福はウチー」

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ミチコさんの子供の頃の節分は 父がホウロクで炒った大豆を枡に納

め 天照大神への祈りを奉げた後「鬼は外福は内」と戸を開け放って

家の内外へ撒いていました。

撒いた後は大急ぎで戸障子を閉め 履物は家の中へ入れ厳重に戸締り

をしていました。追い払った鬼さんの再来を断つためだったようです。

数え年では今年喜寿のミチコさんは年頭姪達に連れられて吉備津神社

へ参拝 祈念のお祓いをしていただきました。 その際、年の数より

少し多く戴いた「幸せの豆」を、節分の今日撒こうと思います。

勿論無病息災を念じた「幸せの豆」ゆえ福は内、福はウチー」と撒き

乍ら イタダキマース。
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by kuraramichiko | 2011-02-04 15:32 | 子供の頃

よっちゃん

         
「いろは」のよっちゃんが 肺癌で 亡くなった。

齢74歳 まだまだ若い はや過ぎる別れは 葬送する者も 悲しい。


「いろは」という称号は 昔々 吉備線が 中国鉄道と呼ばれていた頃から 

東総社の地て゛旅館 カフェ等 大勢の女給さんを雇って 華々しく経営していた店舗。

現在は 元支店での理髪店だが 商いの内容は変わっていても 名称は受け継がれている。

詳細は 定かでないが総社市市史にも数行記されていて「いろは旅館」

本店には 戦時中 作家の永井荷風が 逗留していた とか。

私が4歳か5歳の頃 総社駅前には 支店「いろは」も 繁盛していて

桃ちゃんという きれいなお姐さんもいた。



支店「いろは」の夫妻には 子供がなく 近所に住む私の両親と仲がよく 

貧しい農家の我が家でありながら まるで親族のようなお付き合いをしていた。

「いろは」の小母さんの甥 りょうちゃんとよっちゃん兄弟は 隣村の箭田に住んでいたが 

小学生の頃 毎年 春と夏休みには小母さんの家に遊びにきていて 

三歳上の私の兄と行動を共にし 私も 後にくっついて遊んでいた。



男の子って 当時も揃って寡黙で 派手に飛び回るほどでもなく何をして遊んでいたのか 

記憶は鮮明で無い。

ただ 憶えていることは「りょうちゃん よっちゃん兄弟」は二人共お眼目が大きく 

お寺さんの子供で聡明な少年であったという事だけ。

幼いなりに 私は「憧れていた」のかも知れない。





その後よっちゃんは成人して理容師となり結婚 子供の無い「いろは」の小母さんと

養子縁組をして総社に住み 今日に至っている。

市史にも記されるほどの旅館「いろは」の名称は 理髪店「いろは」として

延々と受け継がれている。



涙もろいが しっかり者の奥さんのNちゃんと 二人の娘 二人の孫にも恵まれ 

手厚く見守られて よっちゃんは逝ってしまった。



斎場にて遠ざかる霊柩車にむかって ひとり佇み慟哭するNちゃんの姿に私も涙した。



想えば よっちゃん達とは 70年もの長いお付き合いになる。

血の繋がりのない他人ではあるが よっちゃん達とは 

何故か「従兄妹」ような気がしてならない。



「嫁」の貰い手のない「娘」のレッテルが貼られていた私が結婚する時

最上級のウールの布地をはずみ 特別仕立てでスーツをプレゼントしてくれた

「いろはの小母さん」 今も 大切にそのスーツは持っています。

こうして 親どうしの親しいお付き合いを通じて互いに幼馴染のまんま

私達は よっちゃんとは チャン呼ばわりで お付き合いしてきた。

遺された奥さんのNちゃんも 私のことはずーっとチャン呼ばわりしてくれている。

これからも そうだと思う。



葬儀のあと 私達へのお礼の挨拶で しつかりと「いろは」を受け継ぎます と 

決意を述べられた CHIちゃんのお婿さんの頼もしいこと。



よっちゃん。

あなたは ずーっと寡黙な人でしたが 素敵な家族を築かれましたネ。

仏様になっても ずーっと見守ってあげて下さいネ。





私の夫と 再会できましたか。 できたら よろしくお願いいたします。



さようなら よつちゃん ありがとう。
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by kuraramichiko | 2010-09-02 18:09 | 子供の頃
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